起 主人公の置かれている状況やストーリーの説明

あなたに会えるのは今日が最後

著者:つこさん。

あらすじ

 もし、わたしがあのとき刃を立てていたら。  もし、わたしがあのときすげなく断っていたら。  もし、わたしがあのとき彼女の言葉を引き出していたら。  あるひとりの女性の、ひとつの情景。

本文

 もし、わたしがあのとき刃を立てていたら。  もし、わたしがあのときすげなく断っていたら。  もし、わたしがあのとき彼女の言葉を引き出していたら。  きっと今のわたしはなかっただろう。 「えりあしを、剃っていただけませんか」  洗い髪を上げた隣に座る見知らぬ女性から、銭湯の洗い場で言われてわたしは戸惑った。  はじめて会った人のように思う。  彼女が柄を差し出してきたむき身のカミソリを見てためらっていると、そっとなにかを告白するかのようにつぶやかれる。 「明日、お嫁に行くんです」  わたしは頷いてカミソリを受け取った。  彼女の首筋は細かった。  わたしはさっと刃を滑らせて、産毛を剃る。  現れた真っ白な肌と無防備なその背中は、ただ銭湯で隣り合っただけのわたしを信じきっていて、けれどどこか物哀しく感じられるものだった。  誰とも知れぬ人間を頼りにしてやってきたのだろうか。  いつもは来ない銭湯で嫁入り支度をするこの女性は、明日以降の自分を美しく思い描けているのだろうか。  カミソリを返して、きれいになりましたよ、とわたしは告げる。  それきり彼女とは言葉を交わすこともなく、それ以降その銭湯で姿を見かけることもなかった。  今でもときどきその白い首筋を思い出す。  顔すら覚えていない、あの女性のその後の人生を想像する。  決して幸せそうではなかった花嫁さん。  もしかしたら、わたしにいろいろ尋ねて欲しかったのかもしれない。  とても冷たくて、とても温かい気持ちから、わたしはそうはしなかった。  あのとき、頸動脈がうっすらと見えた。  わたしはたびたび、そこに刃を押し当てる夢想をした。  わたしは特殊なのだろうか。  起きはしなかったことを何度も記憶から取り出しては、『もし、こうしていたら』と思う。  それは、わたしに関して言えば、必ずバッドエンドになるのだけれど。  もし、わたしがあのとき刃を立てていたら。  もし、わたしがあのときすげなく断っていたら。  もし、わたしがあのとき彼女の言葉を引き出していたら。  きっと今のわたしはなかっただろう。  明日から続く未来に希望はなかった。

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